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転職が決まった。まさかの急展開すぎる。1ヶ月前、記事を書いている時には想像もしなかっただろう。年が明けてから猛スピードだ。期待しないようにしていたが、どこかうまくいくような気もしていた。私はいつも正攻法ではない。ちょっとした運だ。少しの努力と、直感だ。交友関係は狭い癖に、意外とそういう関係で物事が決まったりする。まだこれが最適解かどうかはやってみないとわからない。また1ヶ月後には違う未来が待っているかもしれない。怖い。でも人生案外何とかなっている気がする。自分で進む。それが大事。誰も助けてはくれないし、助けられるのは自分だけだ。

 

日に日にフラストレーションが溜まる。やりたいことがあるのはもちろんだ。業務内容が退屈になっている。興味がない。しょーもない。そういうことがしたかったはずなのに、不思議なものだな。何が私を変えたんだろう。年齢や社会か、人間関係か。

居心地がよかったはずの場所が、気持ち悪くなる。優しいと思っていたはずなのに、訳がわからなくなる。自分を大切に生きていなければ気づかない。知らない間に搾取されているのだ。こっちがなぜ謙る必要があるのか。勝手をしているのは相手なのに、こちらが申し訳なくならなければいけないのか。対人は恐怖だ。相手の感情や意志をぶつけられるのはしんどい。感受性やお察し力が強すぎるのも考えものだ。思い込みも激しい。結局自分を苦しめているのは自分なのだ。

 

残りの出勤が苦痛である。やめると決めてからさらに、どうしようもない人間の空気が無理だ。それがどこにでもある普遍的なものなのか、特異なものなのか、やはり別の場所に行かなくてはわからないのである。1つしか知らないのに、それが当たり前だと思うのはおかしな話である。10知れば、他の9が当たり前なのかも知れない。別が間違いであるとしても、それが間違いであると気付けることが正解なのかも知れない。知らないのは怖い。一生そのままだ。ある日突然気付いてしまって、過ぎた時間の重みに潰れたくは無い。もしそこで間違えたのなら、また別の道を歩めばいい。いつかいつかなどど二の足を踏んでいる場合ではない。人生は短い。人の価値観は変わる。その場その場の自分で生きていくのである。

 

私じゃない誰かがやる事になるなら、私がやろう。私じゃ無い誰かがやったとしても、私は構わない。天秤にかけた時、やはりそう思った。

正解はいつでも自分でしかないので、それを忘れずにいたい。